ランディは人間とのスキンシップが好きです。胸、お腹、顎などを撫でてもらうと嬉しそうです。特に顎の下を撫でてもらうと目を細めて、幸せそうです。
撫でるのをやめると、前足の片方を上げて、私に押しつけて、「もっと続けて」と言わんばかりに催促します。
このところ4月のような暖かい気温が続いていて、一昨日までに山荘の屋根に積もった雪も、道路の雪もほとんどが溶けていました。
しかし、昨日は朝から夜まで雪が降り続いていました。今朝はやんで、しばらく振りの雪化粧となりました。
もう3月なので、1月や2月のような低い気温にはならず、今朝はここでは氷点下3度程度でした。
ですから、積もっている雪は蓼科らしい粉雪ではなく、湿った雪です。
3月2日(火)~4日(木)に用事があって東京に戻った時に、むさし野ミューに行って、映画「アバター」を見てきました。
この映画は第67回ゴールデングローブ賞の「作品賞」と「監督賞」を受賞し、第82回アカデミー賞では作品賞、監督賞、美術賞、撮影賞、編集賞、作曲賞、音響効果賞、録音賞、視覚効果賞の計9部門にノミネートされています。アカデミー賞は現地時間3月7日(日本時間では明後日)には発表される予定になっています。
「アバター」は確かに面白く、迫力がありました。しかし、ストーリーは陳腐で、次の展開が大体予想できるようなものです。ストーリーそのものは賞を取れるようなレベルとは思えません。
しかし、3Dを使った映像は迫力があり、リアルで、なるほどと納得します。 映画は過去半世紀にわたって、白黒映画→カラー映画→70ミリ映画→シネマスコープ→デジタル・サラウンド音響と進歩してきました。ここしばらくは目立った進歩はなかったように思います。しかし、この映画は今までとは全く違った映画でした。向上した3D技術によって、映画は新しい段階に入ったのではないか、と感じました。
ジェームズ・キャメロン監督はこれからはもう3Dでしか映画は作らない、と言っているそうですが、それも頷けます。
映画館に入る時に3D用メガネ(右写真)をくれて、それをかけました。元々メガネをかけていない人は良いのですが、私はメガネをかけているので、その上にこれを二重にかけました。さすがに3時間も二重にメガネをかけて見ていると、ちょっと鬱陶しくなってきました。
通常私は洋画は字幕で見ますが、この映画は吹き替えで見ました。映画を既に見た人のブログに吹き替えの方が良いと書いてあったので、そうしたのですが、これは正解でした。3Dですと字幕は読みにくく、吹き替えの方が画像に集中できる感じがしました。
トータルで考えれば、見ておく価値は十分ある映画だと思いました。
<3月8日(月)追記>
3月7日発表の第82回アカデミー賞で、「アバター」は視覚効果、美術、撮影の3冠にとどまりました。順当な結果と言えるでしょう。
ヴィラ=ロボス作曲の「前奏曲第3番」を新しく練習し始めました。
エイトル・ヴィラ=ロボス (Heitor Villa-Lobos;1887年3月5日~1959年11月17日)はブラジルの作曲家で、独学で作曲を勉強し、クラシックの技法にブラジル独自の音楽を取り込んだ作風で知られているそうです。管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、映画音楽など、1,000曲近くに及ぶ膨大な作品を遺しています。
ギター曲としては5つの前奏曲(1940年)、12の練習曲(1928年)などの作品がありますが、彼の膨大な作品数を考えれば、ギター曲はそのほんの一部に過ぎません。しかしながら、ヴィラ=ロボスは少年時代からギターに親しみ、ギターの性能、特性を熟知していたそうです。従って、クラシック・ギタリストの間でヴィラ=ロボスのこれらの曲がよく演奏され、その多くがギターの名曲となっていることは必然と言えます。
しかし、私はヴィラ=ロボスの曲は今まで1曲も弾いたことがありませんでした。
私の持っている村治佳織さんのCD「ライア&ソネット」にはヴィラ=ロボスの5つの前奏曲が収められています。その中でも、村治さんは前奏曲第3番イ単調をとても綺麗に弾いています。この曲を繰り返し聴いているうちに、自分もこの曲を練習してみたくなりました。
ところで、ヴィラ=ロボスは5つの前奏曲に自分でニックネームを付けて呼んでいたそうです。コンサートなどで弾かれることが最も多い第1番は「抒情のメロディ」、この第3番は「バッハへの賛歌」です。
この第3番を練習するために、YouTubeで検索して調べてみたところ、色々な人の演奏がアップされていました。私の好きなアンドレス・セゴビアの演奏もアップされています(上に添付)。この曲は演奏者によってテンポや曲想の付け方がずいぶん違っています。いろんなプロギタリストの演奏をYouTubeで聴くことができるので、自分が練習する上で大変参考になります。
この曲については、アップされている演奏の中では私はジョン・ウィリアムズの演奏が最も気に入っています(下に添付)。
今練習中ですが、この曲をどう組み立てて、曲想を全体としてどうまとめるかが難しそうです。
ところで、私が最近苦労することは、新しい曲に取り組んで練習し始め、それを一通り弾けるようになり、暗譜するまでに大変時間がかかることです。自分が学生の頃のことを思い出してみると、今は新しい曲をおぼえるのに、若い頃の10倍位の時間と練習量が必要な感じがします。
昨日から暖かくなり、蓼科は今日はバカ陽気。4月上旬くらいの気温です。屋根に積っていた雪は少しずつ溶けて、一日中ぽたぽたと屋根から落ち続けていました。因みに、この辺の別荘地の山荘には普通雨樋は付いていません。雨樋があると、秋に枯葉が一杯落ちて雨樋が詰まってしまうからです。
ベランダで遊ぶランディも今日は快適そうでした。ベランダの脇のベンチで日向ぼっこをしたりしていました。
この冬は12月、1月は雪が多く、厳しい冷え込みの日が結構ありました。気象庁の暖冬という予想ははずれではないかと思いました。しかし、2月に入ると雪は少なくなり、寒さのゆるむ日が増えました。平均したら、やはり暖冬になるのかもしれません。
昨日は朝から日が暮れるまでずっと小雪が降っていましたが、夜の内に雪はやんで、今朝はようやく晴れました。
朝起きると、別荘地内の林は一面樹氷に覆われ、真っ白になっていました。時々樹氷は陽を浴びて、輝いていました。
毎日ランディと散歩するコースには幾つかのお決まりのパターンがあります。上の写真は一番よく歩くコースの光景です。
ギタリスト渡辺範彦氏の経歴をたどります。私は渡辺氏と同年生まれで、同じ時代背景の中を生きてきましたので、特に興味をおぼえます。
*渡辺氏は1947年9月11日に宮崎県に生まれ、3歳の時に神戸に転居しました。
*8歳からギターを始め、11歳、小学校5年生になってギタリスト松田二郎氏に師事しました。
・・・・・私の育った静岡では、地元の公立小学校で、当時習い事をしている男の子は殆どいませんでした。一般庶民はそんな余裕のない時代でした。ですから、渡辺氏は当時としては幼少時から英才教育を受けていたことになるでしょう。
*母親はラジオやテレビの番組で息子に力試しをさせたいと、応募をし1958年、11歳の時には「読売テレビ・仲良し日曜音楽会」で優秀賞を受賞しました。
*1965年(18歳)と1966年(19歳)に2年連続して、日本ギター連盟主催日本ギターコンクール(現在の東京国際ギターコンクール)2位に入賞しました。
*1967年6月(19歳)に初めてのレコーディングをし、LP第1号がリリースされました。
*1969年(22歳)に第11回パリ国際ギターコンクールに出場し、日本人として初めて優勝。しかも史上初の審査員12人満場一致でした。(その後、日本人としては1977年に山下和仁氏が、1981年には福田進一氏がパリ国際ギターコンクールで優勝しています。)
*その後10数年に渡って演奏活動を行いました。
*しかし、1980年代後半から、次第にコンサート活動の量を減らしてしまい、いつしか演奏会から忘れ去られる存在となってしまいました。
*2004年2月肺ガンのため死去されました。
上述の、1967年にレコーディングされたものは、2007年に復刻され、CD 「DEBUT! NORIHIKO - The first recording 1967」として発売されました(上の写真)。私は早速このCDをAmazonを通じて購入し、聴いてみました。この当時、19歳で、音色の面、技術の面、音楽性の面で、これだけ完成度の高い演奏をしている人がいたとは驚きでした。今とは違って、子供の時から本格的にクラシックギターを学んでいる人は少ない時代でした。
(F.タルレガ作曲「マリエッタ」 渡辺範彦氏1976年のライブ演奏)
ところで、平凡な、アマチュア・クラシックギター愛好者である(と自分では思っている)私は高校2年の時に初めてギターを練習し始めました。
静岡の県立高校に通っていましたが、私は2年に上がった頃(16歳)から勉強がスランプになり、まったく勉強する気がなくなりました。その代り、カルカッシ・ギター教則本を買ってきて、自己流でクラシックギターの練習を始めました。練習し始めると、夢中になり、のめり込んで、毎日のようにギターを弾いていました。そのため、高校2年の間に学校の成績はガタガタに下がりました。この時は独学のため、右手は全てアルアイレ奏法で弾いていました。
高校3年に上がる時に、このままでは入る大学がなくなってしまうと思い、ギターを封印し、大学に受かるまでギターは弾くまい、と決心しました。
1年後なんとか大学に入ることができ、受験勉強から解放されて、早速クラシックギターを再開しました。
入学すると私は直ぐにギター部に入部しました。ここでは、先輩からたちまちアポヤンド奏法を教えられ、右手の弾き方を直されました。
このギター部は2年間でやめました。しかし、部活をやめた後も、大学生の間はギターは趣味として、特に用のない時は毎日のように下宿で弾いていました。当時、貧乏学生だった私にとってはギターを弾くことは最もお金のかからない娯楽でした。
卒業して、会社に入ってからは、週末に自分の慰みとして、独身寮で一人でギターを弾いていました。
それまでは、大学1年の夏休みにバイトで稼いだお金で買った12,000円の「信濃」の安物のギターを使っていました。一生使えるようなしっかりしたクラシックギターが欲しいと思っていました。
少しはお金が貯まってきた30歳の時(1977年)に中出阪蔵製作のクラシックギターNo.3000(定価30万円)を購入しました。このギターは今も使っています。
しかし、30歳代に入って結婚し、子供が生まれた頃からギターを弾かなくなりました。以後、ほとんど全く私はギターから離れていました。
ところで、話をギタリスト渡辺範彦氏に戻します。渡辺氏は1980年代後半(つまり40歳頃)から徐々に演奏活動から遠ざかっていき、コンサートを行わなくなったそうです。これほどの才能と演奏技術を持った人がどうしてコンサートもレコーディングも行わなくなったのか、私は疑問を感じ、不思議に思います。渡辺氏のホームページの中の【渡辺範彦プロフィール】 には、43歳(1990年)頃より体調を崩し、療養生活に入る、と述べられています。健康上の問題が理由だったのかもしれませんが、私には情報がないのでそれ以上のことは分かりません。
渡辺氏は2004年2月に死去されました。その頃まだ私はギターから離れたままになっていましたので、このニュースさえ知りませんでした。
渡辺氏は56歳で早世され、残されたレコーディングも多くはないようです。しかし、中身は濃く、功績、ギター界への影響は大きなものだろうと思います。一度渡辺氏の生の演奏を聴いてみたかったと思います。
(M.ポンセ作曲「南のソナチネ」 渡辺範彦氏1979年9月15日ライブ演奏)
私はまず、やーさんのブログ「アメリカで開始したクラシックギター」の1月4日付記事『ギタードリーム誌(1)』で紹介されていた、渡辺氏についての記事が載っている雑誌『ギタードリーム』No.11、JUN-JUL 2008号をAmazon.co.jpを通じて取り寄せました。この号には、クラブ・マリアデュオによる故渡辺範彦夫人渡邊悦子さんに対するインタビュー記事が掲載されています(下の写真)。
このインタビューの中で私が面白かったと思う箇所を下に転載します。
― どんな旦那さまでしたか?
渡邊(夫人):よく気をつかってくれましたね。たとえば、服を買いに行く時など一緒について来るんです。私の服に対してイメージがあるらしく、その通りの服が見つかるまでずっと探すんですね。私はもうこの辺でよいと思っていても、見つかるまで探す。
― イメージ的に純粋な方でしたよね。しかし、髪と服に注文なんて、すごいですね。
渡邊:私よりいろんなことに気がついちゃうんですよ。それで何でも自分でやるんです。洗い物なんか茶碗でも何でもすごい力を入れて洗うんですよ。だからピッカピカ。掃除したら塵ひとつ落ちていない。隅々まできれいになっている。やり出したらずっとやる。毎日ではないですけれど。でも、家事なんかは私に任せてほしいなあと思いましたから、そういうところではマイナス10点。
― 演奏会がある時のようすは?
渡邊:それはもうすごかった。演奏会の3週間前くらいから、睡眠が1日3時間くらいで、ご飯も1食、あとはすべて練習。そういう生活でした。
― じゃあ、お風呂などの時間を考えても、18、9時間は練習なさってたんですか?
渡邊:そうですね。もうずっと。コーヒーとタバコをのみながら同じ場所を何回も繰り返していた。・・・・・
― すごいですね。さすが渡辺範彦師匠。奥様から見て師匠のギターへの接し方はいかがでしたか?
渡邊:とにかく全身全霊を込めていました。何かの折りに「聴く人を飽きさせない演奏をしたい」と言っていました。演奏家として復帰させたいと思っていたところで、亡くなってしまったのは本当に心残りです。 ・・・・・
これらの奥様の話からは、渡辺氏がこだわりを持ち続け、完全を目指す、完全主義者であったことがよく分かります。こだわりを持ち続け、完全を追及するということは芸術家には必要な資質だと私は考えますし、こういうタイプを私は好きです。
(ヴィラ=ロボス作曲「前奏曲第5番」、渡辺範彦氏1979年9月15日ライブ演奏)
渡辺氏は1969年秋、22歳の時に第11パリ国際コンクールで日本人として初めて優勝し、しかも、史上初の審査員12人の満場一致で選ばれ、脚光を浴びました。
しかしながら、渡辺氏は完全主義者だったためか、完全に自家薬籠中としたもののみを録音ないしは演奏会で取り上げたそうで、その天才的と言われた才能のわりには、今我々が聴くことができる、録音された曲は少ないです。
(この記事は続きます。)
ギタリスト渡辺範彦氏は私と同じ1947年(昭和22年)生まれで、2004年に56歳で肺ガンで亡くなりました。天才肌のギタリストと言われていました。
私は渡辺範彦氏の名前を最近まで知りませんでした。大学生の時には私は毎日のようにクラシックギターを弾いていましたが、卒業して会社に入ると、週末に慰みにギターを弾く程度になり、クラシックギター界の情報からは段々疎くなって行きました。30歳代に入って全くギターを弾かなくなり、50歳代後半になってギターの練習を再開するまで 約25年間全くギターから離れていました。
このため、国内、国外でどのようなクラシック・ギタリストがいるのかも分からなくなっていました。
私が渡辺範彦氏の名前を知ったのは、フランシスコ・タルレガ(あるいはタレガ)作曲の「エンデチャ、オレムス」(Endecha, Oremus)を練習しようとして、参考にするためにYouTubeでこの曲を検索した時でした。YouTube上でヒットした何人かのこの曲の演奏を聴いてみましたが、音楽性、音色共にずば抜けていると思ったのが渡辺範彦氏の演奏でした。そこで、2009年3月26日付の私の記事「F.ターレガ作曲「エンデチャ、オレムス」」にはその渡辺氏の演奏を掲載しまた(下に再度添付)。
(F.タルレガ作曲「エンデチャ、オレムス」 渡辺範彦氏1976年のライブ演奏)
この時はこれで終わっていましたが、先月、やーさんのブログ「アメリカで開始したクラシックギター」の2010年1月4日付記事『ギタードリーム誌(1)』でギタリスト渡辺範彦氏のことが紹介されていました。
やーさんのこの記事を読んだことがきっかけとなって、私は渡辺範彦氏に非常に興味を感じました。私が渡辺氏に興味を持った理由は(1)渡辺氏はこだわりを持ち続ける完全主義者だったらしいこと、(2)私と同じ1947年生まれで、私と同じ時代背景の中を生きてきたこと、の二つです。
(この記事は続きます)
標高1,600mの所にあるこの山荘あたりでは冬はやはり気温が下がり、真冬は一日中氷点下の日も多くなります。
しかし、人間の体は順応力があり、1週間もここに続けて暮らしていると寒さに慣れてきます。今は、氷点下10度位になるとちょっと寒いなと思い、氷点下2~3度位だとちょっと暖かいな、という程度の感じです。
今年の冬はここに定住していますが、去年までは冬は蓼科と東京を行ったり来たりして、半々くらいで暮らしていました。行ったり来たりしていると、東京の気温に慣れた体で蓼科に来ますから、ことさら寒さを厳しく感じます。ですから、こちらにずっと居た方が気温に慣れて、むしろ体は楽なわけです。
しかし、今日は一日気温が低かったです。朝8:22のベランダの気温は氷点下11度(上の写真)。明け方は氷点下14度位まで下がっていたでしょう。昼間は曇りがちで時々陽も差しましたが、午後の最高気温は氷点下8度でした。多分、最高気温としてはこの冬一番の低さでしょう。
さすがに今日は一日寒いと思いました。
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